昭和四十五年九月三日 夜の御理解


 ここ二、三日特にこう体が私きついです。もう四時の御祈念が終わってあっちへ下がるのが四時半でした。もうそれから食事してお風呂入ったらもうほんとにあの手を上にこう上げるのがおっくうな位にきついんです。そして休ませて頂くんですけれども今晩はもう御無礼してから誰か夜の御祈念を奉仕して頂こうかと思いましたけど、まあ元気を出してここへ座らせて頂くと又何とはなしに又元気にならして頂いて御用さして頂く訳ですけれども、その事を私今日御神前であんまり体がきついとがちょっと異常だから神様にその事をお願いさして頂いとりましたらね、あのう月影と、月の影ね、まあ人間は本来なんの力も無いものだ、ね、いわゆるそこのところを分からせるのが信仰だと云うてもよいくらい。いわゆる我無力とか、障子一重がままならぬ人の身ぞとかいうのですよね。だから信心はそこのところをまあ一つの時点として我無力であると云うそこから神様のおかげで声も出て神様のおかげで手も動いて居る足も動いて居る眼も見えて居ると云った様にね、そこからほんとの神恩感謝の生活が出来る訳です。丁度人間はお月様の様なものだ、だからお月様そのものには光と云うものはないのだと。ね、あれは結局太陽の光があれに反射してこちらから見たら鏡の様に綺麗にそれこそ夜を昼を欺く様な光が出て居るだけのこと。それであれが三日月になったら光がこまくなる。いわゆる暗の闇になったらいよいよ夜は闇と云う事になって来る訳なんです。
私共の心がね、それこそ円満いわゆる和賀心でまん丸く円満で喜び豊かな心で一杯と云う時にはその神様の光がこれに全面的に当たる。それでほんとに姿は人間であるけれどもほんに仏様ではないじゃろか神様じゃなかじゃろかと云う様な状態、世の中を光輝かせるものにする事が出来る、それを御神徳と云う。御神徳とても本来は自分のものじゃない、やはりこう頂いたもの、太陽なら太陽の光がこれに反射するこちらが円満な大きな心を頂いたと云うだけのこと。そこで私共がより円満な心を目指してただ信心をする訳ですよね。 そこでその月影と云うのですから月本来は私には何の力もないのです。無いなら実を云うたら病気も無いと云うこと。ね、有ると云うなら迷いなんです。これを自分の力の様に思うて居ることは迷いなんです。そうじゃあない、実際は力がないのだ。だからなら病気をして居ると云うそれがどんな難儀な病気であろうがその病気も実を云うたらそこが分かったら無いことになる。ね、ですからそこんところが分からせて頂くとです、いわば我無力であると云うことが分かれば病気も一緒に無くなると云うことになります。だから我無力であると云うことはその様に大変なことであると云うこと。
 但しここにはこういう事がありますね。いわば神様の御都合で足が動かなくなったり、神様の御都合で体がきつかったと云うことがあるんです。これは又別です。ね、それはまあ例を云うといくらも私の例にでもありますよね。そりゃ病気でも神様の御都合である。例えば三代金光様が、今現金光様が朝のお勤めが終わられると病院に入られと云うことでございますけれども、それとてもですこれは大変な神様のこりゃ御都合だと思いますね。まあ大きな焦点になっとります御本部のお広前の御造営と云った様な大変な問題が起きておりますからそういう風な事の為の都合でもあろうかとまあ拝察する訳ですね。
 今日私はあの四時のこの頃御祈念を四時頃御祈念を終わってからすぐ御飯に致します。家内がおかよいしてくれて私は御飯を頂きながらおかげで御飯は大変美味しいんですよね。それが御飯を頂きながらです家内に申しました。今日ね久富先生が、もう久富先生が一番きつかろうと思われるような修行に今日から取り組まれることになって居る。それで俺達も伴奏なっとさせてもらう位な修行を俺達もさして貰わねば相済まんねと言うて二人が話よりました。そしたらね、神様からね、あの私が久富先生の修行の伴奏するのじゃあない、私の修行の伴奏を久富先生がして下さるんだと云う意味の事を頂くんです。有難いなあと云う様に私がどうでも成し遂げなければならない修行がある訳です。ね、ですからなら久富先生は自分のつもりで修行を思い立って居られるけど、それはそのまま久富一郎の修行ではなくて私の修行の応援と云うか伴奏の為に修行して下さるんだと云うことを頂いていよいよ有難うならせて頂いたんですけれどね、そういう意味でなら体のきついと云う様なことも私は修行じゃなかろうかと云う風に思わせて貰います。
 どうぞ一つ信心のぎりぎりのところ自分が何の力もないと、それはお月様の様なものだと、光はないのだと。本来無いのだけれどもこちらが円満なお月様の様なまん丸い心になればそれだけ太陽の光をそこにまともに受けることが出来て、昼を欺く様な光もそこには出るんだと云う意味から、なら私共にはいわば病気もないと云うことを申しましたですね。私共に力が無い、何にもないと云うことは、実を云うたらその病気と思うとその病気もなくなる訳です、無い訳ですね、ですからそこのところの焦点、いわゆる健全な心に健康は宿るとおっしゃいますから、ですから本当云うたら健全なその心に健全な健康と云うものは約束される訳です。けれどもそのもう一つ向こうにです神様の、神様の御都合と云うことがある。そこんところがまた一段深く分からせて頂くと今日私、久富先生が私の修行に久富先生が伴奏しようと思うて思い立ったのではないけれども実際は私の信心の伴奏して下さると云うことになるのです。ね、そして大きな神様の願い、神の悲願が達成される、成就されていく程しのおかげを頂く。この前の月次祭に申しました様に合楽の祈りがそのまま世界総人類の祈りにならなければならないと云う程しの神の願いが合楽に懸けられていると云うこと。合楽の願い合楽の祈りそのものがです、世界中の人間が私共とおんなじ祈りを持たせて頂く様になって来なければ世界真の平和は無い。合楽の祈りはその様な大変なものだと云う自覚を持たなければならん訳ですよね。